先月、とあるネットニュースの見出しに「お寺は罪を問う場所ではない」という記事を見ました。
静岡県にあるお寺から、猫のお地蔵様が何者かに盗まれたことを報じるニュース。そのお寺の住職の「お寺は罪を問う場所ではない」から、そっと戻しておいてくれたらいいというコメントが紹介されていました。
ニュースへのコメントには、住職を性善説であるとして批判するものや、外国人の犯行を匂わせるもの、犯罪は犯罪だから被害届を出すべきといったものが、多く見受けられました。
お坊さんの中にも、同様の発言をよく見かけます。
お賽銭泥棒などを見たら「警察に突き出す」「厳しく注意した」といった声をSNSなどで広く発信し、「正義」「常識」「普通」を声高に叫ぶ方々です。
お墓についても、「正義」「常識」「普通」の言説は強くぶつけられてきました。
「薔薇は地獄を想像させるからお墓に備えてはいけない」
「墓石はお参りした時に目線より低いと見下していることになる」
「お墓参りは午前中。午後でも早い時間に行わないと先祖への感謝が伝わらない」
もちろん、迷信のような物語の裏にある、現実的な理由もあったりするのですが、「正義」「常識」「普通」をたてに、迷信の物言いを強調させる方は少なくありません。
とくにこうした迷信的なお話をご僧侶がされると、まじめな方ほど、真正面から捉えてしまいます。「遺骨の分骨をすると、あの世で、体の一部がなくて不自由する」とか、「女性が男性に嫁ぐということは、僧侶で言えば出家と一緒。元の家族を捨てて出る覚悟を持つべきだ」とお坊さんに言われたことで悩んでいた方と、私はお話をしたことがあります。
平成の30年間は、明治・大正以降に確立してきた葬送の形が、また変化を迎えた時代でした。海洋散骨、樹木葬、納骨堂、宇宙葬、インターネットのお墓参りなど、一言で言えば葬送の多様化の時代に入りました。
大切なことは、どの形が「正しい」とか「常識だ」とか「普通は」とか論じることではなくて、弔いの当事者と、それを取り巻く人々の体験価値です。どんな形で弔ったか、よりも、その弔いでどのような気持ちになったのか、ではないでしょうか。
葬送の形は変わります。
日本でも、山野での風葬や、桶に入れての野辺送り、白骨化した遺体の骨を海で洗う洗骨などさまざまな弔いの歴史を経てきましたし、現在も地域によって骨壷の大きさやお墓へのお骨の収め方も異なります。
お墓参りのあり方も、ご自身の「正義」「常識」「普通」が、果たして普遍的な「正義」「常識」「普通」なのか疑ってみると、お参りの何が大事なのかが見えてくるかもしれません。
機会があれば、遠い街を訪れた時には、その地域のお墓の様子をご覧になってみてはいかがでしょうか。
もちろん、どこかの家族の大切な人のお墓ですので、くれぐれも失礼のないように。
株式会社366
代表取締役 伊藤照男